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帰局後

私の理由

私は、出身大学で臨床研修を終えてそのまま血液病棟に勤務していました。血液の研究に少しずつ興味を持ち始めた頃、ある血液のセミナーに出席し、金倉教授の講演を聴く機会がありました。それまでは血液の研究に触れる機会が少なかったのですが、「いつか自分もこのような研究ができたら、」と感じました。また、違う機会に松村講師の講演を聴きさらにその思いは強くなり、当教室の大学院に入学しました。正直なところ、講演の内容を十分に理解していたわけではありませんでしたが、造血細胞研究のストーリーの広がりに受けた強い印象は今でも昨日の事のように思い出せます。実際に研究生活が始まってみますとtry and errorの連続ですが、とても充実した日々を過ごしています。


大学院生時代まで

私が当科を選んだ理由は他の方とは違うかも知れません。もともと悪性疾患(癌など)の研究をしたいと思っていたのですが、直接その疾患を治療することもしたかったのです。消化器などの悪性疾患では内科で発見しても外科的治療が必要なことが多く、内科だけで治療できるのは血液の悪性疾患だけだな、と思ったので、外科か血液内科かで迷いました。最終的には内科医を選ぶこととし、「臨床と研究と両方できるよ」という医局長の言葉もあり、当科に入局しました。


初期研修が終わると、もともと研究指向が強かった私は迷わず大学院に進学しました。当科では大学院の最初の1年は病棟を担当するのですが、諸般の事情により私は半年担当しただけで研究に入ることが出来ました。とはいえ、はっきりとしたプロジェクトがこの時点で思い付くわけはなく、教官が与えてくださったテーマに沿って実験を行いました。幸いそのテーマはまとまって学位を頂き、現在は別のテーマで結果を求めて放浪しています。以前少しお世話になった基礎の研究室で「臨床の教室の研究はたいしたことない」とよく言われたのですが、血液・腫瘍内科の研究のアクティビティーは非常に高く、「たいしたことない」ことはないな、というのが実感です。


大学院生というと生活が大変、という印象がありますが、週に何度か医者としての仕事をすることで食うには困らぬ生活は十分にできています(これは結婚していてもそうです)。ただし、贅沢は出来ませんが。


私のように考えている方は少ないかもしれませんが、血液に興味があって臨床の教室にいながら研究も結構やってみたい、というムシのいい(?)希望を持っておられる方は当科を考えられてはいかがでしょうか。


Welcome to work or study here

I was Firstly attracted by this laboratory because I had interesting to seek the cause of oncology using leukemia cells.


Then tried to apply this laboratory because the Professor had the experience of studying abroad in USA.


After being accepted by this laboratory, I feel warm. The Professor thinks many things for me, my director thinks many things for me, and all of other persons try what they can to help me.


One of the characters of life working here is busy. E.g. lunchtime delaying is so normal here that many young researchers just eat pan for lunch. Another character is the cooperation spirit, people help each other and work for the laboratory as for themselves.


Welcome to work or study here.


研究者としての才能

友人に「自分は作家としてうまくやっていけるだろうか?」と尋ねられた詩人リルケは「朝目覚めた時、まずものが書きたいと思うならばそれだけで立派な作家だよ」と答えたという。果たして自分は研究者としてうまくやっていけるだろうか?才能があるだろうか?問いかけてみる。


研修が終わった時、外病院に出ることに魅力を感じなかったために何となく進んだ大学院であったが、確かに実験を始めた頃は、毎日が新鮮で、早く技術的なことを覚えたいと躍起になっていた気がする。しかし“過程より結果が求められる”現実は厳しい。何度も何度も同じことをくり返し、結局は振り出しに戻ったこともあった。不安定な足場の基に行ったがために、なんら実りを得ないまま朽ち果てた実験もあった。やがて思い通りいかず、よいアイデアが出せないつらさを痛感するようになった。その時まさかこのまま自分が研究者を志そうとは思いもしなかった。が、いつの頃だろうか、つらい中でもほんの些細な結果にも心踊らせている自分がいた。生命現象のほんの一端でも示せたような気がした。実験が好きになれた。今思うとこの変化は内因的な要素だけではなく、自分を取り囲むいい研究をしようという環境によるところが大きかったように思う。“実験がしたいと思う研究者としての才能を支持する環境”ちなみに今朝目覚めた時、まず昨日は飲み過ぎたと思った自分は少なくとも立派な研究者にはなれないのだろう。しかしこの恵まれた環境の中でできるだけ成熟し、より良い環境造りに貢献できればと思う。


血液との出会い

平成8年、5月。研修を始めたばかりの私に、一人の18才の少年が患者として紹介された。彼は赤いバンダナで化学療法のために髪の毛の無くなった頭皮を隠していた。私より、20cmほど高いところから見下ろされたいくぶんはにかんだその笑顔は、まだあどけなさを残し、病院という場所には似つかわしくなく、生きる力に満ちあふれていた。ナースステーションに帰ってカルテを丹念に読んでいくうち、さっきのちょっと浮かれた気持ちはたちまち消え去り、重く、憂鬱な衝撃に打ちのめされてしまったのだった。高校2年の6月までは彼はどこにでもいるサッカー少年だった。近畿大会の決勝戦で負け、チームメートと涙を流した。そんな日常の中のある日、彼は突然体の異変に気づき、その日から彼の日常は一変してしまったのだ。急性分化型骨髄芽球性白血病(M2)は白血病の中では比較的予後がよく、寛解率がよいとされている。若い生命力も手伝って彼は一回の化学療法で寛解に入り、お兄さんの骨髄をもらって移植を受け、約半年間の入院の後無事に退院し、また彼の日常は華やいだ高校生活に戻っていった。


しかし、その華やいだ日常はわずか1年で消えてしまった。人生の過酷さを知るには彼はまだ若すぎる。私が主治医として紹介された時、彼はまだ再発の事実を告げられていなかった。再移植のために彼に告知をすることになり、若き?新米研修医にその大役が課せられたのだった。再び始まる辛い治療、30分ごとにこみあげてくる嘔吐、吐いた分だけ増やされる薬の量、40度を超える熱にうなされながら厳しく励行を迫られるうがいと吸入、何週間も二畳程度の無菌ブースに閉じこめられ、親ともガラス越しにしかあえない日々、そしてひとけの無くなった病室で夜毎襲ってくる死の恐怖、それらすべてが再び始まると考えると絶望的な気分に犯されたに違いない。しかし、「再び移植をしますか?」という問いかけに彼は、冷静にだが、きっぱりと「お願いします」と答えたのだった。その冷静さが私には却って悲しく感じられた。移植後の再発となると移植成績は群と悪くなる。これまで投与された抗癌剤の蓄積毒性のため治療はより危険なものとなるし、たとえ成功してもその後の再発率は高い。


その日から彼の戦いは再び始まった。私は、朝九時に彼の部屋に行って採血する。朝の苦手な彼のために他の人の採血を全部済ませてからいくのだが、それでもたいてい彼は寝ていて機嫌が悪い。新米の研修医にとっては彼の何千回と使われてつぶれてしまった血管に挑むのがなかなかのプレッシャーとなる。移植の前日、薬浴を済ませた彼を私はブースの中で待ち受けた。すべてを整えて外にでるともうそこは彼だけの空間となった。私は、毎晩、彼のところでビニールのカーテン越しに一時間くらい話をした。サッカーの話だったり、友達の話だったり、高校の先生の話だったり、病院のほかの先生の噂だったり。移植を無事に終えて退院する日、もう絶対戻ってこないでと心の中で祈っていた。


その後、私も別の病院に研修にでて、二年後に戻ってきた。そして彼も、再発して戻ってきたのだった。これが運命というものだろうか。そして12月、彼は亡くなった。今も、私は時々考える。私は彼になにができたのだろうか?と。私は今、研究に携わっているがどんな形にせよ続く限り白血病と闘っていくだろう。それが彼の私に残していってくれたものかもしれないから。